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モーツァルトのウィーン/鈴木秀美
*このエッセイはミト・デラルコ第3回演奏会のプログラムに掲載したものです。
ゲーテは、『弦楽四重奏は器楽の中でもっとも判りやすいものだ。
これを聴いていると、まるで分別ある4人の人たちが互いに熱をこめて語り合っているように思える』と書いたそうである。
18世紀前半頃までの、2つの上声部と通奏低音からなるトリオ・ソナタなどに顕著な二極的作風に比べ、4つの声部がより対等に扱われるクァルテットはいかにも語り合いや議論といった喩えに相応しい。
(ゲーテ曰く、というのはいろいろあるようで、先日行ったウィーンのある店では『悪い酒を飲むには人生は短すぎる』というのが彼の言として壁に掛かっていたが、本当かどうか... 。
内容には大いに賛同する。)
18世紀末期近く、トルコとの戦争で経済が疲弊していたオーストリアでは、僅かな例外を除いて、貴族といえども大オーケストラを維持することは困難になりつつあった。
オーケストラに比べて経済的にも準備の面でも手軽で、しかも貴族自身に参加の可能性がある弦楽四重奏は好都合であり、館での私的な楽しみとして、プロ/アマを問わず広がっていったのである。
程度の差、そして見方の差はいろいろあるが、当時ウィーンの「上流階級」の音楽愛好は相当なものであった。
1800年10月の『一般音楽新聞』の記事には、『誰もが演奏し、誰もが音楽を習っている...ここでは私的ないわゆる「アカデミー」、つまり立派な邸での音楽会が冬の間中無数に催され、音楽無しの霊命日や誕生日などはない...』とあり、またヨーゼフ・リヒターという人によれば『ピアノが弾けず、おまけに歌も歌えないような少女などは、貴族はもちろん、平民の娘にだっていない』ほどであった。
それはモーツァルトが存命の91年頃でもさして変わらなかったであろうと思われる。
そのような状況の中、聴衆・奏者両方にクァルテットの楽しみを存分に味わわせてくれたのは何といってもハイドンである。
クァルテットという形態はそもそもハイドンが確立したもので、幾つかの時期に集中して作曲された名曲の数々は70曲近くに上る。
ハイドン自身とその作品はモーツァルトに多大な影響を及ぼした。
モーツァルトは約23曲のクァルテットを残し、そこにはハイドンとは大きく異なった独自の世界が作り上げられているが、ハイドンなくしてはモーツァルトの作品群も、また弦楽四重奏というジャンルそのものも、随分と性格が違ったものになっていたであろうと思われる。
ハイドンとモーツァルトの音楽の違いについてロビンス・ランドン氏が書いていることが興味深く感じられたので、少々長いが引用させていただく。
『(ハイドンの)音楽の数々は、私たちの目の前であたかも華麗な行列のように繰り広げられ、私たちはそれをうっとりと見守っているが、それは必ずしも私たちが個人的にそれに参加し、私たちが直接に感情をもって関与するのを求めはしない。
他方モーツァルトでは、この関係はまったく異なっている。
つまり彼は私たちに彼の感情世界を共有するよう誘い、言ってみれば私たちの手を取り、私たちを案内し、最後には彼が赴くところ、どこなりと自分についてくることを求めているのだ。
そこから彼の喜びは私たちの喜びであり、彼の悲しみは私たちの悲しみとなる。
(中略) その秋の世界は、おそらくは(世界の現況を考えてみると)途方もない規模で、殊更に私たち自身のものなのである。(後略)』
(「モーツァルト最後の年」より、海老沢敏氏訳)
今回演奏する予定にないハイドンについてこれ以上詳述はできないが、今日演奏する作品の成立の陰にはハイドンが大きく関わっているのである。
さて、このプログラムではモーツァルトの3つの時期、或いは3つのセットから一曲ずつをお楽しみいただきたい。
いわゆるセットとしてその存在や名前がよく知られているのは1782〜85年の間に書かれた〈ハイドン四重奏曲集〉で、ハイドンに献呈されたことからそう呼ばれている。
献呈の辞の中で、モーツァルトはまず『わが親しき友ハイドンに』と呼びかけ、各作品のことを『6人の息子』と呼び、『彼らの父親とも、導き手とも、また友人ともなってください!』と書いている。
これらは1785年1月と2月に、シュテファン大聖堂の近く、モーツァルトがそこでフィガロを作曲し、現在『フィガロ・ハウス』として観光名所の一つになっている家にハイドンを招いて披露されたのであった。
曲集には <狩> や <不協和音> などの名前で親しまれているものが含まれるが、今日はその中から第5曲目のイ長調をお聴きいただく。
プログラム最初に演奏するK.173は <ウィーン四重奏曲集> といわれる6曲中の終曲で、1773年の作曲である。
その年モーツァルトはウィーンでハイドンに出会い、アインシュタインが『モーツァルトは革命家ハイドンを知り、自分の進路を完全にそらせてしまう』と書いているように、彼の影響を大きく受ける。
またこの曲は当時のウィーンで流行していた「シュトルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)」の影響をはっきりと受け、主調に短調が採られている。
完全な形で残っている四重奏曲のうちで短調なのはこの曲とハイドン・セットの第2番のみであり、このK.173の約1ヵ月後には交響曲25番ト短調が作曲された。
最後に演奏するのは <プロイセン王四重奏曲集> と言われる3曲のセットの第2曲目である。
1789年にベルリンへ旅行をしたモーツァルトは、自身チェロを嗜んだプロイセン王、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世から6曲の四重奏曲の作曲を依頼された。
おそらくその帰り道から作曲は既に始まり、タイソンの研究によれば、ウィーンへ戻ったときK.589は第2楽章まで作曲されていたが、逼迫した家計のためにすぐ売れる曲を書かねばならなかった事情が影響して、完成は翌90年の5月、そしてセット自体も結局3曲のみに終っている。
<プロイセン王四重奏曲集> では、他のどの作品とも異なってチェロに高音域や旋律が多く与えられているが、それは王の依頼によるものと考えるのが一般的なようだ。
しかし、モーツァルトはこの旅行で二人の重要なチェリストに出会っている。
まずベルリンでJ.P.デュポールに(もっとも、王の代理として出会ったデュポールの印象は良くなかったようだし、そこで彼のチェロ演奏を聴けたのかどうかは知らない)、そして途中ドレスデンでは、ハイドンと共にエステルハーツィ宮廷に長く仕えた名チェリスト、アントーン・クラフトに出会って、3重奏のディヴェルティメントK.563を共演しているのである。
いかにチェロに『長けて』いても王は王、チェロの表現や可能性についてはむしろプロフェッショナルな奏者、とりわけクラフトの演奏に触発されたところがあることは十分に想像できるであろう。
今日のプログラムの3曲は全てウィーンのアルタリア社から出版されたが、「プロイセン王」の3曲が作品18の1-3として出版されたのは91年の12月28日、モーツァルトが亡くなったのは同月5日であった。
ところで、モーツァルトと聞いて一般的に連想するのは何だろうか。
「天才」、「短命」、「フィガロ」といった言葉、幾つかの映画の場面等...彼の人生について少し読まれた方なら、多くの旅行や病気のこと、そしてとりわけ晩年における経済的困窮、借金に次ぐ借金なども連想されるかもしれない。
たしかに、彼の残した手紙を読んでいると、度重なる借金のお願いや窮状の説明に胸が痛む。
一方、特に日本人的感覚では、彼の住んでいた家の広さや所持していた洋服の数、また年中バーデンに湯治に行っていたコンスタンツェのことなどを知ると、彼は借金をしつつも浪費家だったのかと疑いたくなることもある。
しかし、貴族や上流階級の人々が相手であり、その社会に入れなければ何も仕事のできなかった状況では、食べるものを食べなくてもある程度の身だしなみは必要だったであろうし、前述のランドン氏の言葉を借りれば、『彼らはお金そのものには特別な関心がなかったように思われるが、それでもお金を使う際には軽率だったわけではなかったのである』。
1798年になお、「音楽家兼召使求む」といった新聞広告が見出せたというウィーンで、モーツァルトは実際のところ殆ど独立した職業音楽家として生きていた。
87年の暮れに、皇帝ヨーゼフ2世から皇王室宮廷作曲家という称号は与えられたが、その職務のために作曲したのはもっぱら王宮内舞踏会のためのコントルダンスやドイツ舞曲などであった。
ニッセンの伝記によれば、このような舞曲の領収書の紙片にモーツァルト自身が『私が書いた曲に対しては多すぎるが、私がしようと思えば出来たことに対しては十分ではない』と書いたそうである。
戦争による経済の疲弊とインフレーション、貴族の没落といった社会情勢に加え、権威誇示と貴族の慰みのために催されたのであろう宮廷の大舞踏会は、モーツァルトという稀有の才能を随分無駄遣いしてしまったように思われる。
歴史に「IF」はないと言われるものの、もしモーツァルトが1791年の最初3ヶ月に35曲にも上るダンス音楽を書かなくてもよかったならば、<プロイセン王> のセットも、またあの <レクイエム> も彼の手で完成していたかも知れない、と思わずにはいられない。
ダンスをする人にとっては喜ばしい作品群であろうが、それは必ずしも彼が欲して書いたものではなかった。
今日演奏する私たちの楽器や弓は、およそモーツァルトの時代のスタイルによるものであり、今日一般的に聴きなれている楽器とは機能も響きも違う。そのような道具の使用、また奏法の研究などが、それぞれの時代にモーツァルトが抱いていた想いや考えをより身近に聴くための一助となるならば、私たちも聴衆の皆さんと共に幸いである。
奏者とは、音源のもっとも近くにいる第一番目の聴衆でもあり、クァルテット、中でもモーツァルトのような性質の音楽ではそのことが殊更強く感じられるのである。
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