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コッソットの声!
黒田 恭一(音楽評論家)
まず、声、である。
すでに高い名声をえている歌い手のきかせてくれる声にも、ふた通りの声がある。
ドラマを支えられる声と、抒情を美しくうたうことでとどまる綺麗な声とである。
オペラのアリアは、ドラマを支えられる本物の声によってうたわれたときに限って、そのアリアが内懐に宿しているエネルギーを爆発させて炎と化し、きく人の胸を抉ることができる。
オペラ本体から切り離され、独立してうたわれてもなお、ききてにドラマを感じさせられたとき、そのアリアをうたった歌い手の声が奇跡を起こしたことになる。
オペラ好きは、かつてその奇跡を体験したときに味わった、あのぞくぞくする感覚が忘れられずに、オペラの公演やコンサートに通い、CDに耳をすます。
しかし、奇跡は奇跡であって、そう頻繁には体験できない。
なぜか? 歌い手の数は多くとも、ドラマを支えられる声の持主は、一般に思われているほど多くはないからである。
声は天性のものであって、後の鍛錬によって習得できるものではない。
むろん、より高度の技術を身につけることで、オペラ歌手としての表現力をましていくことはできるが、その音楽が根っこのところに宿しているドラマティックな力を声によって顕在化させられるのは、ドラマを支えられる本物の声だけだということを忘れるわけにいかない。
音符を声でなぞっただけでは、アリアはアリアたりえない。
しかし、困ったことに、ぼくらは、日ごろ、綺麗にはうたわれていても、炎も感じられなければ、頬をぬらす涙も見えない、アリアたりえていないアリアをきかされることが少なくない。
フィオレンツァ・コッソットの声を最初にきいたのは、たぶん、ジュリーニの指揮した <フィガロの結婚> (1959年録音)だったと思う。
その全曲盤でコッソットはケルビーノをうたっていた。そこで、後のコッソットを予見できたといえれば、多少自慢にもなるのであろうが、残念ながら、ケルビーノをうたってのコッソットから、やがてきくことになる凄いアズチェーナやエボーリを感じとることはできなかった。
コッソットには、ガヴァッツェーニの指揮するリコルディ交響楽団と共演して録音したアリア集がある(セブン・シーズ SH5199)。
<カヴァレリア・ルスティカーナ> の「ママも知るとおり」に始まって、<ジョコンダ> の「女の声か天使の声か」で終わる、そのアリア集が日本で発売されたのは、今から40年ちかくも前の1965年である。
このアリア集をきいたときの強烈な印象は、今でもなまなましく覚えている。
そこで、<メデア> からのネリスのアリアとか、<セビリャの理髪師> からの「今の歌声は」等、ドラマティックな表現力を要求されているアリアのみならず、さまざまなタイプのアリアをうたっているコッソットの声をきいて、これが本物のメゾ・ソプラノの声なんだ! といわれたように感じて、声に対しての認識を自分なりに一歩深められたように思った。
ただ、このアリア集は、意図的になされたことかどうかはわからないが、ほとんど残響のない、きわめてデッドな音で録音されていた。
したがって、そのような録音できいていると、うたっているコッソットの声が白日のもとにさらされて、しかもその素肌を虫眼鏡で見せられているような気分になった。
むろん、まるで無響室で収録されたかと思われるような録音は歌い手にとって残酷きわまりないもので、そのような録音では、声に弱いところや粗いところがあれば、一気にあらわになる。
しかし、白日のもとで、虫眼鏡で見てもなお、コッソットの声の素肌は艶々としていてはりがあり、きいていてぞくぞくするほど美しかった。
あれから、すでにわずかとはいえない時間が経過した。あのときから今までに経過したのは、かつての少年が杖にすがり、少女の腰がまがって不思議のないほどの歳月である。
時間はすべてのものを、静かに、誰にも気づかれないように少しずつ変化させていく。
しかし、ひとつだけ、時の女神の触手のおよばないものがある。
本物の声のうちに宿っている劇的たろうとする意志である。
コッソットと同世代のオペラ歌手のほとんどが第一線をしりぞいている。
耳をすますききてにきかせるべきものがなくなれば、かつていかに高い名声をえていた歌い手であろうと、うたうことをやめて当然である。
しかし、ぼくらのフィオレンツァ・コッソットは堂々と舞台に立って、うたいつづける。
コッソットにきかせるべきものがあり、しかも彼女にはそれをききてに届けることができるからである。
今、ぼくたちは、オペラのアリアをうたうフィオレンツァ・コッソットに耳をすませて感じとろうとしているものが、まさにそれである。
当然のことながら、いかにコッソットといえども、その肉体は老いから逃れられない。
それでもなお、コッソットがうたうのは、彼女の声が今もなお、ききてにドラマを感じさせることができているからである。
フィオレンツァ・コッソットをきくということは、声の伝えるドラマを感じとることである。
そのことを十全なかたちでなしえているということで、今のコッソットも昔のコッソットも、何ひとつ変わっていない。
*このエッセイは、2003年 7月27日(日)開催の 「フィオレンツァ・コッソット メゾ・ソプラノ・リサイタル」 プログラムに掲載いたしましたものと同文です。
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