特 集

水戸アニュアル'95

『絵画考ー器と物差し』(1)


 1995年4月1日から5月28日まで、「水戸アニュアル'95『絵画考ー器と物差し』」が行われました。水戸アニュアルは、毎年1回行われている水戸芸術館現代美術センターのオリジナル企画。今回は、絵画を、その「器」としての作品と、それに対する「物差し」としての批評から考え直そうとした展覧会でした。


■絵画考 =心さわがす詩神たち=

 現代美術の中で、ともすれば時代遅れと見なされがちな平面絵画、9人47点を展示して、美術として平面に執着しカンバス上で絵画とは何か、ARTとは何か、vie(生)とは何か、と問うている人々の固有な時間と思考を考えようとした美しい展覧会です。

 サブタイトルの「器」とは絵のことです。「物差し」とは、絵を推し量る言葉としての尺度のことです。絵と言葉は相補的であるのか、いやそうではあるまい。他次元の思考の接触による一方の深化または止揚と解したい。

 作品を見ていきましょう。作品に会えることはとても嬉しい。だってみることはほとんど神に等しい行為ですもの。

◆堂本右美 <陽炎>のとろっとした午睡のような絵も良いが、<考えれば考えるほど><一人合点><ある朝>などは、人間の形でしょうか、男女の輪郭でしょうか、フランス語みたいな明晰なダブルイメージがあって、優しい情感にひたれます。ルネ・マグリットみたいに題名も詩的でしょう。時間にゆるやかな呼吸感があり、作品と言葉に距離を置いて思考の花が咲きましょう。

◆小林孝亘 <Tree>や<HouseDog>の犬が何といっても凄い、模擬骨をくわえていて、黒白と物質感と光の揺曳にひどくこだわっています。幼児体感を作品にしているようなところが、何気ない物質を、例えば、噴水を、ぐーんと当方に引き寄せてくれます。力満点の作品と思いませんか。

小林孝亘 「WaterFountation」(左),「Tree」(右)

◆北野吉彦 <枯れ葉>(紅赤)<つぼみ>(つつじ色)<茂み>(クロームグリーン)の一色の縦長の作品。子細に見れば、それぞれ一色ながら、マチエール(絵肌)の変化はつぼみやたんぽぽの形をしていて、じーっと見入れば、味がありますね。「こんなもんかな、こんなもんだよ、ふーん」そう言いながら陶器に触れるような誘惑もあって、空間をより良い空間にするために側面まで塗りこめていて単純でない。<すすき野>(白)などは、芭蕉の気分を思わせます。これらの作品を組合せたら何になるのでしょう(これは読者の宿題です)。

◆山神悦子 <Ultramarine>にしろ、<No.10><No.14>にしろ、ジャンルを超えてバッハの世界観に共感尊敬する、というこの人の世界は不思議です。『これは何を描いたのですか』『世界を描いたのです』『えぇ?』『カンバスに全世界は描けませんので』『あ、これらは、世界を切り取った一部分の景色なんですね、なるほど…』『だから、林のようでもあり、水辺のようでもあり、茂みがあったり、水に映っていたり、得体が知れないのですね』『世界の風景から切り取られた写象という感じですね』 しかも、常にダ・ビンチの風景画を傍らに置いて自作の尺度にしているという。「想像力をもって、限りない可能性であるところのネガティブな後景を、創造的思考の源泉」(G.グールド)としているのかも知れません。

◆佐川晃司 <半面性の樹塊><空地>など、どれも中心がずらしてあって、バイアスですね。遍在性と偏在性とが混交して、植物との共生感があり、不滲出性の溶液に浸されているみたいです。まさにコンセプチュアル・アート(思考絵画)の例かもしれません。題名の半面性とは、2次元と3次元のアイマイな面の性格を狙っていると言います。また、『これらの作品は、イメージを表現しているのですから、抽象作品ではない。』と作者は言っています。

◆辰野登恵子 <Untitled95-4>など、体温感のある卵子状のものが表われていて、心も言葉もなごむ、<Work78-P-3>や<Work81-P-34>を経て、ここまで到達するための心の揺曳にはすさまじい執念が鬼火のように燃えていたのがうかがえます。どちらでもそうですが、あるいはパッションと言ってよいでしょう。パッション(情熱)の語源はラテン語の苦しみから来ています。キリスト教においては十字架の受難と訳します。明るくて、暗くて、卵胎するものの苦楽さえ表現されているのかもしれません。私は楽天主義と思いますけれど。

◆越前谷嘉高 <水辺の風景><暗い崖>など、類型転位態の面白さが、文人画風の様態をしながら、やわらかく転轍されていて、<歓喜の螺旋>あるいは<神代の階段>の、89年あたりから発想されてきたのでしょうか。終わりのない楽園のようにも見え、とてもエキサイティングです。部分的幾何模様に転写されたなら、もっと心を打つかもしれません。

◆竹内義郎 <Untitled>の何点かの記号化された作品の意味性、あるいは交通信号にも似た無意味性は、形を取り込む主張に作者の夢と希望があって、俳諧的諧謔性と頬笑みとがあって、作者はイラストを描いているのではなく、トーンを抑え、定規とマスキングテープを使って絵を描いているのですが、それは記号から発信して誰にでも理解される言葉にまで通音されているような気がします。

◆東島毅 <UV-89>などのUVシリーズは universeの略か? 混沌の中の秩序か、秩序に浮く混沌か、作者にとって下塗りの濃紺は軽い感じと言いますが、鑑賞者には深い海底に身を沈めたようですね。その濃紺のカンバスに朱のストロークは、無意識の深みへ導くアクセントを持っていて、『これは、牛の頭ですか』『ええ、なんとでも見えますね』と取りとめもない。それにしてもこのバーミリオンは、山のあなたへの憧れでもなく、退廃でもなく、不毛でさえなく、悲愴と言えるものだろうと思いますけど。

 芸術というものは、このように、どきどきする瞬間と静謐な瞬間とを一生かけて構築していくことかもしれません。

 なお、クリテリオムでは、「切り紙」アーティストの駒形克也の花や雲、人骨などの切り絵がローソクの光によって秘儀を開示し、生と死の輪郭線によって平面絵画であると主張しています。

 これらの現代絵画に身を沈めながら、私達の五官をきららな光の中に美しく埋葬しましょう。 (山本)

*本ページの内容は、1995年6月1日発行当時のものです。



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